個と集団の関係

こないだちいさな哲学者たちを観て考えたこと。(書きながら整理)

個と集団の話。

以前から、集団のための個にならないようにするという意識を持っていた。

集団のために個が犠牲にされる状態。

じゃあ、個のための集団ってどういう状態を指すのだろうか。

実は、「個のための集団」という言葉を意識しつつも、それがどういう状態なのかいまいちわかっていない自分がいる。

いや、感覚的に分かっているけど、言語化できていない、整理できていないという感じ。

ただ、今回この映画を観て、ひとつ整理できたことがある。

それは、集団は「個の対話の場」であるということ。

個が集団での対話という場をもって、自分の考え、価値観を知ることができる。そして、多様な価値観を受け止めることで、自分の考え、価値観をさらにブラッシュアップさせていくことができる。

個人ではできない、対話という機能が集団のひとつの役割なんだと思う。

逆に気持ち悪さを感じる集団は、この個としての対話がなく、誰にも主語のない集団のための対話の場になっているところなんだろう。

だれのことを指しているかわからない「みんな」という言葉。

「普通」や「常識」「一般的に」なんかの言葉が出てくるときも、それらがナニカを指しているようでなにも指してない場合もある。もしくは亡霊のようなぼやっとしたナニカ。「地域の声」なんかも割とこれかも。それ誰やねんと…。

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森のようちえんは、個が尊重され、自由な場であることは違いないのだけれど、なにをしてもいいということではない。

じゃあその自由をどうやって作り上げていくかというと、そのひとつが対話なんだと思う。

森のようちえんでは、先生が「教えない」かわりに、こども同士での対話の時間をたくさんとる。

今日はどこに行くか、分かれ道どっちに行くか、ケンカがあった、みんなでこんなことをしてみたい、こんな困ったことがあった、こういうときどうする?、きっかけがあればミーティング。

日々対話を繰り返していくと、どんどん伝えることが上手になり、また、気持ちの受け止め方、受け止められ方も学んでいく。

映画の中のこどもたちも、最初はなかなか言葉が出てこなかったけど、日々哲学の授業を繰り返す中で「考える」「伝える」という行為が常態化し、当たり前のように、日々の疑問を考え、対話することができるようになっていた。

自由保育というとよく聞かれる疑問のひとつ。

「こどもを野放しにしたら、野生化するのでは?」

その疑問に対してのアンサーが、今書いた「個のための集団」という機能なんだと思う。

森のようちえんは、小規模ではあるけど集団生活。

そして、個を主語にした対話を大切にする。

「あなたはどう思うの?」

大人でも時に厳しいこの言葉。

森のようちえんではすごく大切にする。

「わたし」のことが見えてくるから、相手のことも見えてくる。

わたしがいて、あなたがいる。

その環境が森のようちえんの大事な要素。