見えないけどそこにあるもの。

目に見えるものしか信じられないって、すごくつまらない価値観だとおもうなぁ。

といってもスピリチュアルな話でもなんでもなくて、「2017年現在、観測できていないだけ」と言えばニュアンスは伝わるかな。

そんなことを考えてて思い出したのは、建築を学んだ大学時代の恩師小玉祐一郎先生のこと。

小玉先生の最終講義のときの話がずっと頭に残っている。

おおまかな話でいうと、「縁側の心地よさ」みたいな感覚を信じ、日照条件、温度分布、風の動きなどなど、感じられるけど目に見えないものを、当時の最新技術を駆使し、いろんな角度から見える化していき、建築空間へとデザインしていったよというお話。(先生が研究を始めた頃はパソコンが普及し始め、そういった観測分析ツールが進歩した時期。これまで感覚でしかなかったものが数値化できるようになった。)

僕は保育も同じだなぁとその話を聴きながら感じていた。

こどもの育ちも、確かにそこにありちゃんと感じられるけど、すごく不確かで目に見えないもの。

特に心の育ちは、誰にも見えない。

見えないからそこにはなにもないかと言われると、そんなことはない。

こどもの育ちは確かにあるし、「今こどもが育っている」という感覚を僕は信じている。

目に見えない環境を建築空間へデザインするのが建築家の専門性だとしたら、目に見えないこどもの心を感じ、保育を行うことが保育者の専門性なんじゃないかな。

建築では、光、風、温度をもって、見えないものをできるだけ捉えようとしていたけど、保育では、こどもの表情、ことば、しぐさとかで醸し出る空気感で、その子の姿、心を捉えようとするんだと思う。

みたいなことを考えてたら図になった。(小玉先生と自分を並べるのは恐縮だけど笑)

思考の過程の図だから、不整合もありそうだけど、おおまかにこう捉えてもいいのかも。

小玉先生は、それらのアウトプットとして「パッシブ・デザイン」を掲げ、さまざまな建築作品へと昇華した。

僕のアウトプットは「森のようちえん」。

見えないけどそこにある心の育ちの一番いい環境として森のようちえんをデザインしている。

デザインといってもモノや場所だけではない。保育では〈人〉も大事な環境のひとつ。

ここもまた目に見えない価値。保育の中身は見えないものだらけだな。それだけにやりがいがあるけど。

最後に、小玉先生のことばを引用。

科学的なアプローチが、我々の分野にも大きな貢献をしている訳ですけれど、でもなお、捉え切れない所もあるのは明らかです。科学的にまだまだ見えないものであっても、我々は「ある」と感じることができるし、分っています。デザインツールを駆使しながら、そこから漏れる地域の特性や身体感覚も含めて、設計をしていますが、そこはいつも難しいというか、面白い所ですね。

いろんな経験してきた世代が、『科学的にまだまだ見えないものであっても、我々は「ある」と感じることができるし、分っています。』って言い切っているのがいいよね。

そんで、それが科学的アプローチもちゃっかりしっかり駆使した上での発言なのも好き。
見えないものを信じているけど、それだけだと宗教ぽくなっちゃうからね。笑

観測、検証をしっかりしつつも、そこから漏れていくものがあると認識して、大切にしないといけない。

ふとした思考が深まって、いつのまにか僕の保育観を振り返る話になっていた。

保育と建築を行き来した僕なりの今の到達点。