わたしについて

ホリイシンタロウのこれまで。

福井時代(0〜18歳)

福井県にうまれました。

地元の幼稚園、小学校、中学校、高校に進み、とくに夢もなく、周りにながされるまま生きてきました。むしろ、周りの友達と一緒にいることが、人生の最優先事項でした。

高校への進学も、「仲の良い友達が行くから」という理由。それ自体を後悔はしていませんし、今もその友達とは仲良くやっています。なんの躊躇もなく手を差し伸べられる友人というのもそうたくさんは作れないですからね。

そんな、友達がすべてだった時代でした。

進路も特にはっきりとした理由もなく、母が保育士で、よくお手伝いをしていたり、こどもの相手も好きだったという、なんとなくの理由で幼児教育学科のある短大に決めました。

岡山時代(19〜20歳)

とにかく遊んだ2年間でした。環境が変わると人も変わるそうです。

もともと真面目な生徒じゃないですが、ある程度のお金と無限の時間を手に入れたことで、そこに拍車がかかったようです。でも、この2年間とことん遊んだことで、次の神戸での4年間、学びに集中することができたとも感じているので、それが無駄だとは感じてなかったり。

そして、岡山時代には、わたしが普通の保育士では終わらなくなったできごとが、2つあります。

ひとつは、保育実習。実習を通していちばん感じたことは、「“先生”というなにかにならないと、こどもの前に立てないんだな。」ということ。それは、専門知識と経験を駆使し日誌を徹夜で書き上げ、さらに、ピアノが上手に弾けて、絵が上手、手遊びをたくさん知っていて、いつでも笑顔で明るいし、ちゃんとこどもを叱ることができる先生像をすべてクリアしなければいけないということを意味していました。僕には到底辿り着けない境地だなと「保育士」へのもやもやを抱えることになりました。

ふたつめは、実習で重度の精神障害者施設にいったときです。利用者さんが毎日暮らしている部屋がまさに牢屋のような部屋で、すごく質素なベッドに、ちいさな窓、その外側には鉄格子があり、入り口には鍵があります。今となってはそれぞれに意味があるのは分かりますが、当時の僕にとっては、ここが人間の暮らす環境なのかと、ものすごいカルチャーショックを受けました。その出来事から、人と環境というものを意識することになりました。

こどもとそれを取り巻く環境という視点が自分の中に芽生え、当時の僕の知識では、こどもの環境=園舎くらいしか浮かばなく、「そうだ!園舎を考えるひとになろう!」と思い立ちました。

そして、保育士としてこどもの前に立つことへ違和感を感じていたこともあり、もう少し間接的な立場でこどもと関わろうと、進路を大きく変える決断をしました。

神戸時代(21〜24歳)

ひとことでは語れない神戸時代。

いままで生きてきた世界を何倍にも拡げてもらいました。それは、「環境」「建築」「デザイン」のもつ視点や思考、世界観など、それぞれが本当に刺激的で、わくわくするものでした。自分の作品をつくるということがない保育士。そこから一変して、自分の考えを形にするという建築。まったく異なる思考のプロセスに感動し、建築、そして、デザインというものにハマりました。

そしてもうひとつ、KIITOとの出会いがありました。KIITOとはデザインクリエイティブセンター神戸の愛称で、仲のいい先輩に連れられ訪れました。学校では、ひとつの形ある作品としての建築を学びましたが、KIITOでは、形のないデザインを実践しながら学ぶことができました。学生や社会人、いろんな背景をもった市民があつまって話し合い、社会課題に対して答えをだす。学校は専門的なプロを作り出す場所ですが、KIITOは「ただのひと」がそれぞれの課題に向き合って解決に向かって進んでいました。その「だれでもできる」感にとても魅力を感じました。「そうか、デザインってだれでもできるんだ」という気づきが、ただの保育士でもすごい力をもっているんだという確信になりました。

そんな刺激的な毎日のなか、縁が縁を呼び、卒業後就職することになる、保育園専門の設計事務所にバイトに行く日々も続きました。

大阪時代(25歳)

というわけで、はたから見れば、保育を勉強し、建築を勉強し、保育園設計事務所に行くという至極順調そうな流れ。しかし、1年ちょっとで辞めてしまいました。

建築設計という立場で、保育に関わろうとすると、やはり現場(保育士さんやこども)が遠く、継続したアプローチもなかなかできず、手応えが感じられず、もやもやを抱える1つの要因となりました。

建築側の問題としても、保育施設には向かないような都市部の厳しい敷地条件での設計案件や、補助金のシステムによる設計施工期間の短さ、それによる不十分な打ち合わせ、本当に必要かどうかわからない複雑すぎる法令、理事長VS園長VS保育士合戦などなど、自分の手には追えない問題の前に、その違和感をどうすることもできずにいました。

1年という短い期間でしたが、僕を無力感で包み込むには十分な時間で、1日中仕事が全く手につかなかったりもしました。

森のようちえんとの出会い(26歳前半)

無気力感から少しでも抜け出そうとしていた僕は、無意識に自然を求め、全国の森をネットで検索していました。そこで、ひっかかったのが「森のようちえん」というキーワード。

妙に惹かれ、さらに調べてみると、数週間後に森のようちえん指導者養成講座なるものが開かれるそう。これは行くしかない!と思い、飛び込みました。

「こどもを信じて待つ」を軸に保育を行う森のようちえん。そこでの学びは、僕にとって、これまで学校で教えてもらった保育観、保育論をひっくり返すものでした。保育時代に実習で感じたもやもや、“先生”でいなくちゃいけないという認識を壊し、ありのままの姿でこどもに寄り添うこと、その姿で保育ができることを、初めて知りました。

また、園舎もなく自然の中で保育するという僕にとっては革新的で、でも本質的なその姿に、当時設計のしがらみの中にいた僕は打ちひしがれてしまいました。

「そうか。自分たちでつくらなくても、そこにある自然でいいんじゃないか。…なんて簡単なことだったんだ。」

講師のうっちゃん(内田幸一先生)の熱い想いや、これから始めたいと考えてるひと、もうやってますというひととの出会い。働き始めてから忘れていたのですが、自分が一番好きだったのは「楽しいことをする」でした。そして、楽しそうに保育を語る大人の姿がその空間にはたくさんありました。

それから、本当に設計の仕事が手につかなくなり、この自分が中途半端に取り組んだ仕事の先にも自分が大切にしたいと考えている保育士さんやこどもがいると思うと、これ以上迷惑はかけられないという気持ちになり、すぐにでも辞める決意、というか、新しいステージに行くという決意をしました。

仕事を辞めてからは、森のようちえんの研修へ行ったり、新しい学びや出会いの場へ行ったり、とにかく心のおもむくままに行動しました。

このブログを始めたのもこの時期です。自分の声を聴いて、記録して、振り返ることをちゃんとやろうと決意しました。

そして、次の活動の拠点として、地元福井を選びました。

福井で森のようちえん(26歳後半)

地元といえども、当時は狭いコミュニティで生きてきた僕に人脈はほとんどゼロ。しかも、生まれ育った場所とは違う地域で活動しようと決めていました。なので、イチから僕というものと森のようちえんを広めていかなければなりませんでした。

ただ、設計事務所時代を経て、誰かの指示を受けながら動くということが、とても苦手だとはっきり認識した僕にとっては、やり方は分からなくとも、自分で考え、行動し、結果を自分で受け止めることのできる環境というのはすごく充実感のあるものでした。

福井にはまだまだ森のようちえんという言葉すら認知されてないような状況でしたが、いろんな場に行き、たくさんの人に、「森のようちえんをしたいんです」と伝えまわっていたら、たった数ヶ月で、キーパーソンとなる人と出会い、フィールドも決まり、さらに一緒にやりたいと手をあげてくれる仲間もみつかりました。

その仲間とともに、2017年1月「このゆび」という任意団体を立ち上げました。

その仲間と共に、4月から始める森のようちえんのビジョンについて話し合い、一歩めとして、月1のイベント型から始めること、補助金を申請して行政との関係をつくることなどを決め進み始めました。

福井森のようちえん ひととき スタート(27歳)ー現在

2017年4月30日。

奇しくも僕の27回目の誕生日が、自分が主催する初めての森のようちえんの開園日となりました。

森のようちえんの名前は「ひととき」

豊かな「人」と「木(=自然)」に囲まれ、人生の大切なひとときを過ごせるように。

そんな想いを込めました。

毎日型を目指すひとときですが、2017年度は月に1回の活動。数は少なく、イベント的になってしまいますが、本質的なところは変わらず大切に。それは「こどもの育ちを信じて待つ」ということ。

一歩一歩大切に過ごしていこうと思います。

記ー2017/11/22